読書感想文は書けなくてよい(20210510 箇条書き日記)

 小学生が本を読んでも何の感想も抱かなくて当然だし、抱く必要もない、という話をします。なんなら私は高校生まで何の感想も抱かなかった。

 

・読書感想文の課題図書となる児童書では、しばしば物語のなかの子どもが何かしら特別な体験をして、何かしらの教訓に行きつく。たとえば家族の温かさや、友情のかけがえのなさを知る。あるいは殊勝に、命を大切にしようとか、人の役に立つことをしようとか、地球の環境を守ろうとか決意する。

・こういう他人の物語を読んで、自分にあてはめて類推したり内省したりする高度な能力が、小学生に備わっているだろうか。というか、備わっていないといけないだろうか。

 ・彼らにはまだ、周囲の人々のなかでの自分の位置づけさえ、おぼろげにしか把握できていないのではないか。家族や友人の大切さを身に沁みて感じたり、ましてそれを言葉にしたりするのは、ずっと後の話だ。命の大切さは、生き死ににふれた個人的な体験がなければピンとこなくて当然だし、人間としての道徳とか責任の話もやはり難しい。そもそも人間としての責任を子どもが背負う必要なんてない、と私などは思ってしまう。

・つまるところ、彼らは感想を語るには経験値が低すぎる。自己や世界を記述する以前に、自己のことも世界のことも、まだまだわかっていないのだ。

 

 ・子どもは世界にふれはじめてまもない。小学生はもちろん、程度の差はあれ中高生もそうだ。子どもが物語にふれるのは、幼児が公園で犬や草花にふれるようなものだ。

・幼児が犬にふれて感想を抱くだろうか。抱かなくて当然だし、抱く必要もないだろう。彼らはまだ、目の前に開かれた世界をただ享受し、吸収するばかりの存在だ。

・子どもの読書も同じだ。感想なんて抱かなくて当然だし、抱く必要もない。「すごかった」「おもしろかった」「つまらなかった」「よくわからなかった」くらいしか出てこなくても何の問題もない。自分が世界から受け取ったものを言葉にできなくても、受け取ったという事実が損なわれることはない。彼らが受け取ったものは、間違いなく彼らの内に堆積している。

 

 ・私はこの文章を、自分に宛てて書いている。「自分が世界から受け取ったものを言葉にできなくても、受け取ったという事実が損なわれることはない」。これを宣言するのに、私は10年くらいかかった。感想文が何も書けないということは自分は何も感じていないのだと解釈して、共感性の低さや情緒の乏しさをひそかに恥じていた。

・ところが18歳を過ぎたころから、本や映画の感想が勝手に出てくるようになった。何が起きたのかは自分でもよくわからない。自己のことや世界のことが多少わかってきて、語る言葉を得たのかもしれない。あるいは読書感想文の苦役から解放されたからか?

・振り返れば、読書感想文が書けないからといって自分の感性を疑う必要はまったくなかった。いまならわかる。私が受け取ったものは、間違いなく私の内に堆積している。