哲学科志望理由(のようなもの)

 私は幼いころから「私が死んだあともこの世界は続くのだろうか」「私以外の人も私と同様に自我を持っているのだろうか」「私が認識している世界と他人が認識している世界は実はまったく別物なのではないか」といった哲学的な疑問について空想することが好きだったが、哲学という学問に本格的に傾倒するようになったのは高校2年生で西洋思想を学びはじめてからである。情熱的に思考し、同時に理性を駆使して普遍的な言葉で世界を語ろうとする哲学の営みに私はすっかり惹かれてしまった。


 そもそも哲学は世界や生、実在といった根本的な問いに対し、ロゴス(言葉、論理、理性)を徹底的に推しすすめて演繹的に考察を深めていく性質の学問であるから、理性的で緻密な認識の方法はまず不可欠である。しかしそれ以上に、哲学者の探求からにじみ出る人間らしい感性が私は好きだ。


 デカルトがあらゆるものの実在を徹底的に疑い、すべての不確かなものを潔癖なまでに排除していった先に「われ思う、ゆえにわれあり」という結論を見出したこと。言語の論理性を信じた前期ヴィトゲンシュタインが、言葉によって定義可能なものごとを厳密に制限していった末に「語りえぬものについては沈黙しなければならない」という言葉で筆を置いたこと。あるいはサルトルが、神なき後の不条理な世界にあって、自己の本質を自ら規定する自由な人間のあり方を力強く説いたこと。彼ら哲学者はおのずと湧き出る問いに突き動かされ、人格をかけてそれに取り組む、きわめて人間らしく誇り高い存在である。こうした先人たちの思考をたどり、また自分でも世界のあり方を疑い問いつづけていくというのは、私にとって非常に光栄でわくわくすることだ。


 1年次で哲学の基礎を学んだのちは、特に社会哲学と政治哲学に対象を絞って自分の関心を深めていきたい。いま私たちを取り囲んで現前している社会は強固な基盤を持っていて不変なもののようにも感じられるが、民主主義思想や構造主義を学んでみると、実は非常に恣意的で暫定的なものなのかもしれないと思えてくる。先人の思想を借りて社会の別のあり方を構想したり、社会を作り上げている原理を解き明かしたりする営みはとても興味深い。実際的な権利運動や階級闘争と同様に、人間が生きる社会はどのように在るべきか・在りうるかという思弁的な議論の中にも現実を変えていく力は大いに存在すると私は直感している。


 先ほど哲学には感性と理性の二つの側面があると述べたが、よりよい社会や正しい政治について考えるときは、直感的な良心の判断と理性的に構築された道徳原則のすり合わせの中で真理を探し求めることになる。思考を進めるなかで感じるちょっとした違和感や嫌悪感を掘り下げていけば、いままで意識していなかった信念が自分のうちに思いがけず見つかることもある。地道でストイックな内省のなかから洞察を深めていくのはときには苦しい作業にもなるが、内向的で疑い好きな私には性に合っていて楽しい。


 さらにもう一つ哲学に期待している点をあげるならば、ものの見方・捉え方や人生に対する態度を学べるということがある。私はなるべく長く大学にとどまって哲学を研究していくつもりだが、仮に哲学を仕事にできなかった場合でも、先人の思考の方法や自分で鍛え上げたものの考え方は生き延びるために必ず役に立つと信じている。たとえばレヴィ=ストロースからは自分の思考の枠組みを相対化して他者を理解する方法を、ニーチェからはむなしく苦しい人生をあえて力強く肯定する態度を学ぶことができるかもしれない。アリストテレスの目的論、カントの義務論、ベンサムとミルの功利主義といった思想からは正しい行動を選択するためのヒントをもらえるかもしれない。あるいは、まだ不勉強で具体例をあげることができないが、哲学のものの見方をアナロジー的(相似的)に実生活に役立てることもできそうだ。


 なお、このたび哲学科を志望した理由として、本科のカリキュラムがディスカッションに比重を置いたものであることがあげられる。同じ問題をまったく別の角度から捉え、異なる論点を持っている人と話ができることは本当に刺激的でうれしい。上出来だと思っていた自説に疑問や反論を呈されることで弁証法的に思考の強度が上がっていくのも貴重なことだ。同じく哲学に関心のある仲間と活発な議論ができることを心から楽しみにしている。