落ちこぼれ哲学徒による存在論への不満

 「存在とは何か」という問いの目指すところがよくわからない。

 私がある小動物を見て「これは何?」と尋ねて、「これはハクビシン」という答えを得る場合、「これは何?」と問う時点で、すでに「これ」は私の認識の対象となっている(たとえば体長100cmほどの、細身でしっぽが長く、鼻に白いスジのある生き物として)。

 同様に、「存在とは何か」という問いが生じるとき、すでに「存在」は何らかの仕方で経験されている。結論から言えば、「存在」とは実のところ、事物がもつ「現に・ありありと」感につけられた名前なのではないかと思う。私は、自分にとって机が「現に・ありありと」立ち現れていることをもって「机が存在する」と感じている。

 となると、「存在とは何か」という問いは、「私に対して事物が『現に・ありありと』立ち現れている、この事態とはいったい何か」という問いに変容する。

 たぶんこれを現象学というのだと思う。

 私は、存在を問う哲学の議論のうち、現象学に到達しない種類のものにイマイチ入り込めない。私に言わせれば、机が「現に・ありありと」感じられることと、机が存在することの間には飛躍がある(この机は幻かもしれないし、私は夢を見ているかもしれない)。つまり、この世界が存在するということ自体が一個の信仰である。存在は先験的でも自明でもない。

 むしろ、この世界が私に対して現象することのほうが確固として与えられた前提であり、こちらが本来の思考の出発点だろうと思う。存在より現象を問うべきなのだ。

 ……という考え方をすること自体が、私が世界と関わっている仕方や思考の態度を示しているのかもしれない。たとえば、私の頭のつくりがもともと独我論的であるから存在派ではなく現象派になっているとか、存在派の世界の感じ方が肌感覚でわからないとか、そういうことはありそうだ。

 私はたいへん不勉強で、存在論についても現象学についても、ごく限られた議論しか追えていない。今更こういう問いを出すこと自体が無学の証だという自覚もある。詳しい方がいれば教えていただけるとうれしい。